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1位「8時だョ!全員集合」(TBS系・1969~1985)
1位はテレビ史上に残るお化け番組「8時だョ!全員集合」です。最高視聴率は50.5%(1973年4月7日放送)。加藤茶による「ちょっとだけよ」「うんこちんちん」などの大ヒットギャグも生まれましたが、メンバーの荒井注の脱退で一時は人気が停滞した時期も。
その後、新メンバー・志村けんによる「東村山音頭」が爆発的にヒットし、ドリフ健在をアピールしました。オープニングコントの舞台狭しと建てられた大セットがオチと共に一気に崩壊する場面も人気。2020年に志村けんが亡くなり、追悼番組が放送され、新しいファンも獲得したようです。
「毎回コントが面白くて、当時ファンだった天地真理、南沙織などのアイドル歌手が出てたので欠かさず見てましたね~(笑)」(61・男性)
「毎週土曜日の夜8時が来るのが、待ち遠しかった最高の番組でした。子供達と最初から最後まで大笑いさせてもらいました。良い思い出でした」(71・男性)
「『笑いすぎて、おなかが痛くなる』ということを初めて経験した。オープニングでメンバーが会場から走りこむ時の観客との一体感。一度生で見たいと思ったものです。『全員集合』のDVDセットが出た時、中学生だった息子に買い与えると、笑い転げて『ずるいぞ! こんな面白いもん、毎週見てたんか』。本当に幸せな子供時代を過ごせました」(62・女性)
「コロナで亡くなられた志村さんに敬意を込めて。生放送だったのが今思うと凄いです。停電の中でも放送しちゃうのは、今だったらどうなっちゃうのか……」(32・女性)
「エンディングのカトちゃんの『また来週!』と言った後のほっとした表情が印象に残っています。ジュリーをはじめ、ゲストのコメディが観られるのも楽しみでした」(59・女性)
「お笑いとしても面白かったが、ヒゲダンスの選曲など音楽もよかった。毎週の生放送で大道具さん大変だっただろうな、と大人になって思う」(49・女性)
「幼稚園の時に志村けんさんのファンになった、人生で最初にファンになったと自覚したタレントさんでした」(44・女性)
「就職で上京して間もない頃、参観応募ハガキをたくさん出して何度か当選してサンケイホールへ見に行きました。生中継と言うのがやはり良かったですね。前説も面白かった記憶があります」(70・男性)
「昭和44年の番組開始当初から見ていた。今でもザ・ドリフターズは、日本のコミックバンドの中ではナンバーワンだと思っている」(59・女性)
構成/矢野維之
〈自分史上最高のバラエティ番組「30位からのランキング」を見る〉
モンスターバラエティ番組 『8時だョ!全員集合』は、1969年10月4日から1971年3月27日、および同年10月2日から1985年9月28日までの2期にわたってTBS系列で毎週土曜日の20:00 - 20:54
(JST、1972年9月までは20:56、1982年9月までは20:55)に放送されていたお笑い番組・公開バラエティ番組である。 全803回にわたりザ・ドリフターズの冠番組だった。 番組名は「全員集合」と略されたり「ドリフ」と呼ばれる場合もある。8時だョ!全員集合
『8時だョ!全員集合』とは
番組はドリフによるコントが中心の前半パートと、体操あるいは合唱団などによるショートコントが中心の後半パートに分かれていた。
前半パートと後半パートとの間には、ゲスト出演者による歌のコーナーがあった。
放送期間16年と、当時のバラエティ番組としては長寿作品。
このうち1971年4月から9月までの半年間は、ドリフのスケジュールの都合から、ハナ肇とクレージーキャッツがメインの番組『8時だョ!出発進行』が放送。
基本的には生放送であったが、事前収録の放送となる回もあった。
例えば、番組がスタートしてから1か月の間は録画放送であった。
また1970年代前半までは、日劇や浅草国際での舞台公演があったこと、ドリフの休暇やスケジュールの都合などから録画放送となる回があった。
このほか、ドリフが『ザ・ピーナッツ さよなら公演』に顔出しするため、1975年3月26日に事前収録したものを同年4月5日に流したことがある。
この回は、近畿地方におけるネット局が朝日放送から毎日放送へ移行して最初の放送回となった。
このほか、諸事情で新作の制作を中止し、傑作選を放送した回も存在する。
毎週各地の劇場・ホールで公開生放送あるいは公開録画を開催。
第1回は三鷹市公会堂からの録画放送。
原則としてTBSエリア内の東京首都圏を中心とし、時には系列局の開局記念企画として札幌、仙台、福島、新潟、静岡、名古屋、桑名、金沢、倉敷、広島、福岡、宮崎といった地方での収録も実施している。
1984年10月以降はTBS本社(旧社屋)Gスタジオでの公開生放送となることが多くなり、ホールからの中継放送が著しく減っている。
2005年10月2日の復活特番では、1994年に落成したTBS本社(新社屋)Bスタジオからの公開生放送を実施している。
随時、回り舞台を活用する大掛かりな舞台装置と、入念に練り込んだコント。
大仕掛けの屋体崩しに代表される豪快なオチなど、出演者たちの身体を張った笑いが、老若男女を問わず幅広い層の視聴者に熱狂的に受け入れられた。
特に小学生には爆発的な人気を誇っていた。
また生放送にこだわったために停電・セットのトラブル・出演者の負傷等のアクシデントに見舞われた回もあった。
ゲストには当時の売れっ子アイドルや演歌歌手などを3 - 4組ほど招いていた。
回によっては三船敏郎、若山富三郎、菅原文太、加山雄三、田宮二郎などの大物俳優やスポーツ選手、TBS系の他番組からゲストが出演することもあり、しかも彼らが積極的に番組のコントに参加していた。
番組全体の平均視聴率は27.3%で、最高視聴率は1973年4月7日放送の50.5%(ビデオリサーチ調べ、関東地区にての数値)であった。
なお、この50.5%という数値は、日本のバラエティ番組史上の最高視聴率でもある。
最盛期には40% - 50%の視聴率を稼ぎ、「お化け番組」「怪物番組」と呼ばれ、「土曜8時戦争」と呼ばれる視聴率競争でもほぼ無敵の存在であった。
このためこの番組が全盛期を迎えていた頃は、TBSでは土曜夜のプロ野球中継が組まれることはほとんどなかったほどである。
1970年代後半から1980年代前半にかけては、19時台前半の『まんが日本昔ばなし【第2期】』(1976年1月 - 1994年3月、毎日放送制作)、19時台後半の『お笑い頭の体操』『クイズダービー』(1976年1月 - 1990年3月)、21時台の『キイハンター』『Gメン'75』(1975年5月 - 1982年4月)や『スクール☆ウォーズ』(1984年10月 - 1985年4月)などとともに、TBSの土曜夜の黄金期を象徴する番組であった。
このため後年TBS系の番組名場面集などで取り上げられることが多く、番組終了から30年以上経つ現在も高い知名度を誇っている。
1978年には日本PTA全国協議会が「低俗テレビ番組を野放しにできない」として放送中止をテレビ局とスポンサーに求め、チャンネルの切り替え運動や商品の不買運動までちらつかせたが、視聴率はびくともしなかった。
モンスター番組の終焉
1981年に仲本氏、志村氏の競馬のノミ行為事件の影響。
その年の春から始まったフジテレビの裏番組『オレたちひょうきん族』の台頭。
さらに6月のギロチン事件の影響が重なり、1982年中頃から番組人気に陰りが見え始めた。
そして1982年10月2日の放送回で初めてひょうきん族に視聴率を抜かれた。
これ以降は視聴率争いに苦戦し、1983年8月13日には視聴率で初の1桁(9.2%)を喫している。
以降は視聴率が10%後半くらいが平均となり、ひょうきん族と抜きつ抜かれつの視聴率争いを繰り広げるが、1985年に入ってからはほぼ後塵を拝した。
そして遂に、土曜20時台枠の抜本的な見直しにより、1985年9月28日に中断期間を含めて16年の歴史に幕を閉じた。
TBSは1985年7月19日の打ち切り発表の中で、「生放送を公開形式でやっていくことには限界があった。ナンセンスギャグもやり尽くした」ということを理由に挙げていた。
その後、1985年10月5日は『電リクだョ!全員集合』と称し、約2時間枠で電話リクエスト形式で過去の名場面集を放送。
そして年内いっぱいは総集編番組『ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100』でつなぎ、1986年1月から同じくドリフの加藤茶氏と志村けん氏をメインに据えた『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まる。
ドリフのメンバーがメインの番組は、1992年9月終了の『KATO&KENテレビバスターズ』まで続いた。
ドリフメンバーのスケジュールは木曜日から土曜日までの3日間押さえており、基本的には木曜日に次週分(9日後)のネタ作り。
金曜日に翌日分の立ち稽古。
土曜日がリハーサルと本番という流れとなっていた。
「番組がスランプに陥っている」と言う理由で、通常のレギュラー放送を一時休止して(その間は総集編を放送)、ドリフメンバーによる「合宿」まで行ったという。
このように莫大な労力を費やして制作していた番組であった上、セットや出演者への保険といった諸経費の高騰・安全性の問題・その後の様々な表現規制・芸能事務所の生放送番組に対するスタンスの変化などといった業界を取り巻く事情の大幅な変化もあり、現在ではこの様な規模の公開生放送番組を毎週1回のペースで作ることは極めて困難である。
かつてドリフのマネージャーを務め、現在ドリフメンバーが所属するイザワオフィス社長の井澤健氏も『週刊新潮』のインタビューで「時代が変わり過ぎて、現在ではもう再現不可能な要素が多過ぎる」と語っている。
番組誕生40周年記念盤 8時だョ!全員集合 2008 DVD-BOX 通常版
モンスター番組はライバルも神話級
裏番組はあの『オレたちひょうきん族』
裏番組はあの『オレたちひょうきん族』。
今でこそ『オレたちひょうきん族』も神話レベルで語り継がれているが、当初の目的は、打倒・怪物『8時だョ!全員集合』であった。
『オレたちひょうきん族』はこのモンスター番組に挑戦者として挑んだ番組だったのだ。
『8時だョ!全員集合』の終了は、結果として『オレたちひょうきん族』の台頭によるものではあったが、『オレたちひょうきん族』のメインキャストであったビートたけしは、この『8時だョ!全員集合』を「今見ても面白い」「それは完璧に計算して稽古して作り上げたものだからだ」と高く評価している。
一方で、自身が担当した『ひょうきん族』については「今になって『ひょうきん族』を見ても面白くも何ともない」「古臭くて笑えるもんじゃない」とし、『ひょうきん族』で行った楽屋話的な笑いを「芸の笑いとは別のもの」と述べている。
『8時だョ!全員集合』は現在の大御所芸人が、目指すべきお笑いのひとつの完成形だったことが窺える。
どんなに厳しい親でも公認?
日本国民の人気を二分した『8時だョ!全員集合』と『オレたちひょうきん族』
現在のように、チューナーがふたつあるTVなんて皆無だった時代の話。
一般家庭ではビデオ録画することが精一杯。
しかしダブル録画なんかもちろんできない。
2チャンネルの同時視聴なんか言わずもがな。
録画=視聴の時代だったから、録画しながら裏番組を観ることなんてことすら不可能だった。
(我が家は無理。でも、もしかしたら高性能デッキなら可能だった?)
だから視聴者は、どちらかを選ばなくてはならなかった。
視聴者は、この二番組のどちらかを選ぶという、究極の選択を強いられる。
おかげで社会で話題は完全に二分された。
学校や会社は『8時だョ!全員集合』派か『オレたちひょうきん族』派かで真っ二つだった。
(ちなみに著者はまだ義務教育課程のはじまりぐらいだったから、学校の話題として稿を進める。)
このふたつの番組のどちらかしか選べないとは、今考えたらまったく酷い話だ。
しかも子供にチャンネル権なんか与えられなかった時代だから、さぁ大変だ。
子供の意思なんてお構いなし。
家庭環境によって視聴制限がなされていた。
ちなみに我が家は『オレたちひょうきん族』を観ることに懐疑的だったから、強制的に『8時だョ!全員集合』派になる。
『ひょうきん族』は「観るとバカになる」とかなんとか言われて、なかなか観せてもらえなかった記憶がある。
ある意味なんと厳格な時代であったろうか。
最初はグー、またまたグー、いかりやチョー助、頭はパー
『8時だョ!全員集合』派だった我が家。
あまり鮮明な記憶は残っていないが「志村後ろ後ろ~~」だけは、どうしても言わずにはいられなかった。
わかっていても面白かった。
『最初はグー、またまたグー、いかりやチョー助、頭はパー‥』
これを考え出したのも、たしか彼ではなかっただろうか。
これにより日本中のジャンケンが変わった。
当時は日本中の子供が知っていた。
あの頃の子供たちにとって彼はHEROだった。
そのHEROの名は、志村けんという。
チャップリンを知らなくても彼を知らない子供はいなかった。
2020年3月29日。
志村けん氏の突然すぎる訃報は、日本中が涙した。
享年70才だった。
まだ早い…
早過ぎる。
今でもまだ、どこかで信じられない自分がいる。
何かの番組に、そのうちひょっこり現れるんじゃないかと思ってしまう自分がいる。
あれから2年半が経とうとしている。
日本中にたくさんの笑顔を届けてくれてありがとうございました。
改めて、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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